間違った旅路の果てに正しさを祈る *Reprise

著:ニコリリ


11.さよならナイ


 元々透き通ってるようなナイの頬だったけれど、その時はいっそう血の気がなく、まるで空気に溶けてしまうんじゃないかと思うほど、儚げだった。
 ひとり椅子から立ち上がったナイは、うつむき気味に視線をテーブルに落として、それでもはっきりとした声で言った。
「みんなにね、渡したい物があるの」
 そう言ってナイがランプさんに目配せすると、ランプさんは一瞬驚いた顔をしたあとで頷き、ダイニングを出て行った。
「前にジェロニモに言われて作っておいたたんだけど、渡すなら今だと思う。ひとりひとつずつ持って行って」
 ナイがそう言う内に、ランプさんが四つの箱を持って戻ってきた。キャラメルの箱くらいの大きさだ。ランプさんはそれをひとつずつぼくらに配った。
「これは?」
「世界で一番頑丈なメッセージボックス。元々核戦争後に生き残ったわずかな人類に向けたメッセージを残しておくために考えていたものだったんだけど、今は私たちのために使います」
 なんだそれ? わけがわからずにぼくはみんなの顔を見回した。マーカスはにこにこしているけど、たぶんぼくと同じでわかっていない。ただナイからなにか貰ったのが嬉しいんだろう。ジェロニモはわけ知り顔。最後に同じようにみんなを見回していたゴードンと目があって、互いに肩をすくめあった。
「私たちはここまでだけれど、私たちの思いを継いでくれる人が世界のどこかにきっといるはずよ。みんなにはその人にこのメッセージが伝わるようにして欲しいの」
 さすがにぼくは声を上げた。
「ご、ごめん、ぼくナイがなにを言ってるのかちっともわからないんだけど……」
「うん、そうよね。私の方こそごめんね。急いで話しすぎてるみたい。ちょっと気が動転してるから」
「ジェロニモ、説明できるか?」
 ゴードンが言う。ジェロニモは目を閉じて静かに応えた。
「来るべき日のため、おれたちは大地の声に従うんだ。それぞれの箱をそれぞれの“世界の真ん中”に供える」
「うーん、もう少し詳しく」
「大地の声は詳しくは語らない。おれに言えるのは、このことが世界全体にとって、絶対に必要だということだけだ」
「せ、世界?」
「それはつまり赤い帽子の少年にとって、すなわちおれたち全員にとってということだ」
「あ、赤い帽子の少年?」
 どうなんだろう、余計わからなくなってしまった気がする。
 頭を抱えたぼくを見かねてナイが声をかけてくれた。
「ゴミ除去装置と共にこの箱が閉ざされてしまう私たちの未来への道を開いてくれるの。今はわからなくてもいい、このメッセージボックスだけはいつも持っているようにして」
 それはまるで切実に願うような口ぶりだった。
 ナイがそう言うのなら、ぼくはそれに逆らう意思はない。そう言えば前にジェロニモが言っていたっけ。ナイも大地の声を聞くことのできる人間だって。
「みんなのこの後のことは、知り合いの研究所に助けてもらえないか頼んでみるつもり」
 そして、ナイは一度じっと黙り、一同を見回すと、深呼吸の上で言った。
「本日を持ってエコロジー研究所を閉鎖します」

 いつからナイはそう考えていたんだろう?
 そもそも……、どこまでナイには見えていたんだろう?
 ジェロニモも、この後に起きることまで知っていたんだろうか?
 大地の声はいったい……?

 今となっては、それを尋ねることはできない。

 どうしてこんな事になってしまったんだろう。なにが間違っていたんだろう。

 ぼくらはどうすればよかったのか。
 ぼくはどうすればよかったのか。
 この暗い船底で自問し続ける。
 もちろん答えは出ない。

 あの日以来、夢でぼくは何度も繰り返し最後の光景を見つめることになった。
 音のない、スローモーションで。

 ぼくらは玄関ポーチに並んで彼女を見送っている。
 ランプさんを伴い、ぼくらに笑顔で手を降るナイ。
 ナイは彼女の黒塗りの自動車に乗り込む。
 運転席でエンジンを掛けたランプさんが、驚き慌てた様子でナイの方を振り向く。
 厳しい表情でナイはランプさんに一言なにかしゃべる。
 ナイが座席でかがみ込み、姿が見えなくなったかと思うと、次の瞬間。
 自動車は内側から膨れ上がった爆炎によって吹き飛んだ。

 ぼくの目はくらみ、何も見えなくなった。

 次に目にしたのは身体中焼け焦げになりながらも命をとりとめたらしいランプさんが、泣き叫びながら燃えあがる車に向かって飛び込もうとするのを、ジェロニモとマーカスが必死に抑えつけている光景だった。

 やがて、スローモーションが終わり、ぼくの世界に音が戻る。ランプさんの声が聞こえてくる。
「なぜ! なぜ私が! 生き残るべきはあなただったのに!」
 ランプさんは暴れもがいた。
 轟々と炎を上げるナイの自動車。
 消火器を持ってきたゴードンが、消火剤をぶちまける
 炎はぼくらをあざ笑うかのように無数の舌を踊らせるばかりで、まるで衰えることを知らなかった。

 こんなのは――嘘だ――。
 ぼくはよろよろと車に近づいていった。
 激しい熱気を押し返すようにしてゆっくり進んでいく。
 そしてぼくは次第に炎の中に顔を沈めていった。
 前髪がちりちりと音を立てて焼けるのがわかった。目や鼻、唇、頬もみるみる水分を失って焦げていくのが感じられる。
 痛みも恐怖も感じなかった。
 だってこんなのは嘘だから。こんなことが起こるわけがないから。
 とは言え、これが夢だったとして、それでもぼくにはやらなければならないことがあった。
 彼女を助けなきゃ。
 炎を透かして、車の中に目を凝らす。
 ぼくの大事なナイはどこだ?
 どこにいる?

 不意に、ぼくの視界がぐるりと回って、身体が地面に打ち付けられた。
「ガッ、ハッ……!」
 息がつまって、ぼくは地面の上で身体をくの字に曲げた。
 涙で滲んだ視界の中にマーカスの顔が大写しで入ってきた。一緒になって草むらに倒れこんでいるのだ。
 今思えば、それはマーカスが、ぼくを燃え上がる車から引き剥がして助けてくれたということだった。

「マ、マーカス、ナイを助けないと……」
 ぼくは声を絞り出した。マーカスは返事をする代わりに立ち上がって、ぼくの手を掴み、引き起こした。

 思い出したかのように、車がまた小さな爆発を起こした。

 そばでは、消火剤の切れた消火器を抱きかかえるようにした、ゴードンが膝をついていた。
 ゴードンらしからぬ呆然とした表情で炎に包まれた車を見ている。
「ゴードン、どうしてそんな顔をしてる……? 早く、早くナイを……」
 ぼくが声をかけると、ゴードンはゆっくりぼくを振り返った。ぼくと同じで炎に近づき過ぎたのだろう。前髪は焼けて短くなり、顔中火傷していた。
 ゴードンは言葉を発しなかったけど、その目がゴードンの言いたいことをはっきりとぼくに伝えた。
 こんなのは――嘘だ――、と。

 ランプさんは今は全身の力が抜けたようになっていて、ジェロニモが手を離せば、そのまま崩れ落ちそうだった。
 結局、ぼくら五人は、ナイを燃やす自動車を目の前にして、なにもできず、無言でそれをただ眺めているだけだった。
 ぼくらの時間は、ぼくらの世界は、そこで完全に静止した。

 なにも感じず、なにも考えず、なにも思わず。こんなのは嘘だ、こんなのは嘘だ、こんなのは嘘だ、とただひたすら呪文のように頭のなかで繰り返しているだけ。

 だが、どこかから、かすれた声が聞こえてきたことで、静止した世界が動き始めた。
「み、みなさんに……、伝言が……、博士が最後に……」
 かすれ声の主はランプさんだった。
 思考停止した状態だったぼくは、初め彼が何を言ってるのかわからなかった。
 が、その言葉の意味がゆっくりとぼくの中に染みこんでいくにつれて、少しづつ世界が戻ってきた。
 そしてその意味が理解できた瞬間、ぼくははっとして息を呑んだ。
「ラ、ランプさん、それは……」
「博士は最後に……、みなさんにこう伝えて欲しいと言い残しました。『いつまでもみんなのことを愛してる』と」

 その時ぼくはまだ虚と実の間に立っていた。おそらく他のみんなもそうだった。
 今起きていることが嘘か、それとも現実か。
 それは自分自身で選ばなくてはいけないことだった。

 そしてぼくらは目の前の光景を現実として受け止めることを選んだ。
 ナイが残したメッセージを聞いて、それを選んだ。
 それがどんなに辛い現実だとしても、この先に地獄のような日々しか残されていないとしても、その最後の言葉を嘘にはできなかった。絶対にしたくなかった。

 今も後悔し続けている、その判断を間違いだったと思う、こんなことが現実に起こるはずがないと信じる気持ちのほうが強い、この世界が嘘であれと毎日願う――。

 それでもぼくはこの世界で生き続ける。
 彼女の最後の言葉が、胸の奥で小さな灯りとなってぼくの道を照らしている限り。
 力尽きて動けなくなるその日まで。
 ぼくは、この世界を歩き続ける。