間違った旅路の果てに正しさを祈る *Reprise

著:ニコリリ


7.ハテナッチエフェクト


 今でこそレムのエコロジー研究所と言えばなかなかに有名だけど(悪名だけどね)、研究所の象徴ともいうべきあの発明品ができるまでは、今と名前が違っていた。
 当初の名は「クァンタムラボラトリ」すなわち量子研究所という(ぼくからしてみれば)ちんぷんかんぷんなものだった。
 量子論と量子力学については、ことあるごとにナイがぼくやゴードンにそのあらましを語ってくれたものだけど、ゴードンはともかく、ぼくがそれをちゃんと理解できたかどうかは実に疑わしい。
 そんなわけだから、ぼくが書くことの中には、かなりの確率でいい加減な理屈や、間違った情報が混じってることと思う。どんな人が今この日記を読んでいるかぼくにはわからないけれど、あなたがもしこれから量子力学について学びたいと思ってる人だったなら、どうかぼくの話を鵜呑みにしないで欲しい。ちゃんとした専門的な本にあたって勉強して欲しいと思う。ああ、せめてゴードンがここにいてくれたら、互いの記憶を確認しあって、もう少し自信を持って説明できるのだけど!

 とにかく頑張って説明してみよう。
 量子力学ってのは大雑把に言ってミクロの物質のあり方を探る学問らしい。ぼくらの体も、この日記帳も結局はミクロの物質の集まりなわけだから、つまり物質全般が世界にどう存在してるのかって考えることでもある。
 ミクロの世界では、物質は原子核とその周りを動き回っている電子によって成り立っている。これはまあ高校の物理の授業で習ったのでぼくでも知ってること。
 動き回っている電子の状態は光を当ててその反射を調べることで測定できるんだけど、光を当てて反射させるってのはようするに「見る」ってことだから、いろいろ測定器とかは使うけど「見ればわかる」って、そんな当たり前の話だ。
 問題は、見ていないときの電子の状態がどうなっているかということを計算で割り出そうとしたときに現われる。
 例えば、三十分前に船内の散策に出かけたあの黒猫が今この瞬間、貨物船ホリデイの中のどの位置にいるか、そしてどのくらいのスピードで歩いているか、もしくは走っているか? 厳密に計算していくことで明らかにすることができるかどうかってことだけど、結論から書くと、量子力学においては、見ていないときの電子の状態は「特定できない」らしい。
 確率の雲とか言い表されるその状態は、観測されていない電子が確率的にばらついた状態にあることを指す。
 三十分あれば黒猫は船の中のどこにでも行けるから、ぼくの目の届かないところのどこにいてもおかしくない、って話ならいたって普通のことだけど、量子力学が語っているのは実はちょっと違っていて、電子は実体そのものが確率の雲の状態で存在していて、観測した瞬間に、それまで広がっていた雲の状態から一点の粒の状態に収縮するということ。
 黒猫の例えで言えば、今、この時、猫は船の中一杯に広がった確率の雲の姿になっていて、ぼくがどこかの船室の扉を開けて黒猫を見つけた瞬間に、雲から猫の格好にまとまるということだ。
 さっきも書いたとおり雲のようなミクロの物質をどんどん組み合わせていけば、ぼくの体になり、この日記帳になり、やがてそれは世界になる。ということは、量子力学が語っていることは、この世の物質は本来すべて確率の雲の状態こそがあるがままの姿で、誰かがそれを観測したときだけ、確率的な様々な可能性からなにかの形に収縮するってことなのだろうか?
 ――なんてことを我らがナイは研究していて、かつて、大学の研究室にいたとき、そのことに関するある大発見をした。
 それは量子力学の、いや人類の歴史に名を残すほどの大発見だったんだけど、残念ながら実際に名を残したのはナイではなく、彼女の当時の担当教授のほうだった(ぼくらの間ではうすのろのスケベ親父教授と呼ばれている)。ナイの研究成果を誰よりも早く目にする事のできた教授は、その立場を悪用して手柄を横取りしたのだ。
 学会はこの発見に沸き、教授の顔は数カ月に渡ってサイエンスマガジン各誌の表紙を飾り続けた。そのあいだナイは教授の策略によって研究室から遠ざけられ、発言を封じられてしまった。
 頭に来たナイは辛うじて教授に奪われなかったわずかなデータだけ持って大学を辞めレムに帰ってきたのだ。

 ナイの発見は現在では教授の名前を冠してハテナッチエフェクトと呼ばれている。本当ならナイエフェクトと名付けられるべきその理論を元にしてぼくらが製作したのが、つまり、かの有名なゴミ除去装置、だった。

 ナイエフェクト、いやここはあえてハテナッチエフェクトと呼ぶことにしよう。その理論的な部分については一度ならずナイから説明を受けた事があるが、正直なところまるで理解できなかったので、さすがにそれはここで無理に説明する事はやめておく。
 ただそのエフェクトが具体的にどんな風に働くのかについてはものすごくシンプルな事だから、それは簡単に説明できる。ハテナッチエフェクトがもたらすのは「確率の雲の収束の阻害」だ。
 ちょっと簡単な説明過ぎただろうか。つまりハテナッチエフェクトを利用すると、物質が確率的な可能性の存在から、ひとつの姿にまとまってしまうのを防ぐことができるのだ。そしてさらにそれはすでに収束してしまった状態からさかのぼって効果を与える事ができる。
 どういうことか想像しにくいとは思う。ぼくも実際目の前でナイが実験するのを見せてもらうまでは、物質が確率の雲の状態に変化するということがどんな状態なのか、まったくわかっていなかった。

 とある雨の日の午後、ナイはハテナッチエフェクトに関する歴史的な実験を行った。
 ナイが実験のために用意したのは、陶器でできた緑色のエジプト猫の置物と、改造された携帯電話らしい装置だった。
 研究所の一番大きな部屋に、頑丈そうなスチール製のテーブルが運び込まれて、そのテーブルの上、真ん中に陶器の猫はちょこんと座っていた。
 テーブルの一番近くに立つのは助手のランプさんだ。
 作業着を着てゴーグルとヘルメットを着けた彼の片手に握られた携帯電話には、なにやらごちゃごちゃした機械が、たくさんつけ過ぎたストラップみたいにぶら下がっていて、そのうちのひとつパラボラアンテナみたいな形状のものが、もう片方の手から猫の置物に向けられていた。
「それでは今から波動関数収束の遡及阻害実験を行います」
 ランプさんの後ろの方に立った白衣のナイが、レコーダーのマイクに向かって宣言する。ランプさんは少し腰をかがめて、アンテナをぐっと猫に向かって突き出す。
 ぼくたち四人は白衣にゴーグルを着けて、遠巻きにテーブルをぐるりと囲んでいた。
「カウントダウン、三、二、一……ゼロ!」
 次の瞬間、ぼくらの目の前で音もなく猫が消え去った。霧めいたものが見えるかとも思っていたけれど、そういうものも全くなく、ふっと消えた感じだった。
 ナイがつかつかと近寄り、置物のあった辺りを手品師そっくりの仕草でさっと手で払う。
「実験成功。対象はすべての観測者から認識されない状態に安定しました」
 ナイは微笑みを浮かべてぼくらの顔を見回した。全員で大拍手。
 と、その時マーカスが気づいた。ランプさんが床にひっくり返っている。
 あとからランプさん本人に聞いたところによると、猫が消えた瞬間、ランプさんにだけ大爆音が聞こえた(ように感じられた)とのこと。その音のあまりの大きさに一瞬、気を失ってしまったのだそうだ。
「うーん、これはたぶんエフェクトを発生させるときの反作用で、操作者の脳になんらかの影響が出ると見るべきね」
 なんか怖い事をナイは言う。
「もともとあの装置は任意の観測者の脳が対象に及ぼしている波動関数収束フローを逆流させることで収束を阻害するものなの。任意の観測者っていうのは装置の操作者のことね。つまり操作者の脳そのものが装置のメイン回路であるとも言えるわけ。エフェクトをかけたときに脳にある程度のショックが生じるのは、たぶん装置の根本的な問題だろうから、今のところ防ぎようがなさそうだわ」
 意識を取り戻したランプさんを前に、真顔でそんな事を言うナイ。ぼくらはできれば装置を操作したくないものだとつくづく思ったものだが、結局は後々何度かやるうちに、爆音にはすぐ慣れるということがわかった。

 ところで、ぼくらの目の前から姿を消してしまった猫の置物だが、あれはいったいどうなったと思うだろうか。
 確率の雲という状態については、さっき説明したとおりなので、置物はその場に確率的存在として「ある」。ただ本来、観測されることで起こる確率的な多数の可能性の収束はハテナッチエフェクトによって邪魔されてしまうので、誰がどう探しても置物は「見つからない」。
 ナイによると消えた物質を見つける方法はただ一つだけあって、例の装置の操作者が、再収束をかければいいらしい。
 話だけ聞くとものすごく簡単そうなんだけど、逆流させた脳内の収束フローをさらに逆流させるにはまったく別の仕組みで動く装置が必要とのことで、結局ナイはそれを完成させることができなかった。たぶん理論としてはできあがっていたんだろうけど、装置を作り上げるには、彼女に残された時間があまりに足りなかった。

 で、実験が行われた日の晩、ぼくらは実験成功を祝ってささやかなパーティをしたんだけど、その席で、しこたま酔っぱらったゴードンが言い始めたわけだ。
「なあ、兄弟〜、せっかくの大発明なんだぜ、こいつをよ、大っ々的に世の中に広めたくはないか?」
 当然マーカスは乗っかる。
「それだよな! おれも絶対そうするべきだと思うね」
「でも、この装置の使い道っていったいなんだろうな? なんに役立つんだろう」
 首をかしげたぼくの肩に、ジェロニモがぽんと手を置いた。
「――この惑星に不要なものを消し去るのに使えばいい」
「なにそれ?」
 ナイがきょとんとしてジェロニモの顔を見上げる。ぼくは手を叩いて言った。
「なるほどわかった! 産業廃棄物とか汚染物質なんかを消すのに使えばいいんだ!」
「いやいや、それならもっと身近なところからな、リサイクル不能なありとあらゆるゴミを片付けるのに使えばいいんじゃないか?」
 ゴードンがもっともな事を言う。ナイはこの時はたぶんぼくらの話を冗談だと思って聞いていたのだろう、
「だったらかなり厳重に安全装置をつけないと、危なっかしくて使えないわねえ」
 なんて、カクテルグラス片手に呑気な声を出していた。

 知っての通り、ぼくらは大真面目に本気だった。
 かくして「クァンタムラボラトリ」改め「エコロジー研究所」は、総力をあげてゴミ除去装置の開発に乗り出した。