間違った旅路の果てに正しさを祈る *Reprise

著:ニコリリ


6.レモンの匂いがする水


 ある日の朝のこと、ぼくが研究所に入るとナイがいなくて、ランプさんを含めた四人が何かもめていた。
「なにかあったの?」
 ぼくが訊くと、血相変えたマーカスが言う。
「ナイがさらわれたんだ!」
「さ、さらわれた?」
「そうだよ! 早く助けに行かないと!」
「ちょ、本当なの?」
 面食らって他の三人を見ると、みな取り乱した様子もなく、ゴードンはため息混じりに首を横に振った。
「違うんだジミー。博士はさらわれたんじゃない。ランプさんの話によると――」
「だってなゴードン! おれは見たんだってば!」
 マーカスがゴードンの言葉を遮った。
「ナイは嫌がってたんだよ! それを無理やり車に押し込められてったんだ!」
「ちょっとそれ大変じゃないか! みんなどうしてそんなに落ち着いてるのさ!」
「そうだろジミー! 行こうぜ!」
「おうとも!」
 そう言って駆け出したぼくとマーカスの腕を、ものすごい力で掴み引き戻したのはジェロニモだった。
「まあ待て。心配はいらない、はずだ」
 ジェロニモはそう言って、ぼくらをぐいぐい引っぱると、部屋の真ん中にあるソファに押し込んだ。
 思いっきり顔をしかめたゴードンがぼくらの前に立って言う。
「ジミーまでマーカスと同じにならないでくれよ。取りあえず落ち着いてランプさんの話を聞けって」
 ぼくはゴードンとマーカスの顔を交互に見た。顔を真っ赤にしてあせりまくっているマーカスに対して、冷静な表情をしたゴードン。だがぼくは気が付いた。ゴードンに慌てた様子はないが、よく見るとその頬は少し青ざめている。なにか気がかりがあるんだ! どういうこと? 心配はいらないんじゃないのか? なにが起きてるんだ?
 めまいに襲われ、鼓動をおかしくさせながら、ぼくは言った。
「じゃあ早く聞かせてくださいランプさん。いったいなにがどうなってるのか。ナイは無事なんですか?」
 ランプ研究助手は口笛を吹き出しそうな形の唇をちょっと舐めてから、語り始めた。
「まー、博士のプライベートなことがらですから、私も細部まで知っているわけではないのですが――」

 ランプさんの語ったところによると、ナイを連れて行ったのは彼女の父親らしかった。グリーンセイルにいたときに情報を見たことがある。確か港湾部開発公団の役員をしてる人だ。ナイはほとんど自分の家族のことを話さないので、もしかしてもう亡くなってるのかと思ってたけど、どうやら健在でいたようだ。
 連れてかれた先はちょうど公園を挟んで研究所の反対側にある高層ビルの展望レストラン。
 同席者は某建築会社の社長とその息子だって言うんで、まるでお見合いみたいだなってぼくがつぶやくと、ランプさんはタコチューみたいな口をさらに尖らせて「そうその通り、まさにそれです」だって。
「そんなまさか本当にお見合いだなんてこと……」
 絶句したぼくはみんなの顔を見る。マーカスはこの話を今初めて聞いたような顔をしてる。ゴードンは青い顔、ジェロニモはいつもと変わらない超然とした様子。
「さらわれたんじゃないことはわかったけど……だからってお見合いさせられてるんだったら、ぼくらは……」
「おれたちの出る幕はない」
 ゴードンはぴしゃりと言ってのける。マーカスなにか言うことはないのか? ぼくは助け舟を期待したけど、だめだ。さっきまでの勢いはどこへ、しょんぼり肩を落として気の抜けたような顔をしてる。
「博士は子供じゃないんだ。自分のことは自分でやるさ」
 相変わらず青い顔してるくせにゴードンはそんなことを言う。
「そりゃそうかもしれないけど、いいのかゴードンは、本当にそれで?」
「……どういう意味だ?」
「それは、その……」
 ゴードンきみだって、ナイのことが――。
「逆に訊くが、ならジミーはどうしたいんだ? レストランに乗り込んでってお見合いをぶち壊しにしたいのか?」
「えっ? うーん、まあ有り体に言えばそうなんだけど……」
「そんな騒ぎを起こして一番困った立場になるのは誰だ? 博士なんじゃないのか? おれたちの軽率な行動が彼女を困らせる、それだけは避けなけりゃ――」
 辛そうなゴードンの顔。ようやくわかった。そうか、ゴードン。今すぐ飛び出して行きたいのはきみも一緒だったんだな。そうだよ、いつだってぼくらの気持ちはそうなんだ。
 だからぼくは頷いた。
「わかった、もう慌てたことは言わないよ。その代わり、みんなでよく考えてみようよ。ぼくらがどうすればいいのか。なにかできることはないのかを、さ」
 ……なんて言ってみたけど、これはぼくの精一杯の強がりだった。

 結局、ぼくらにできたことはそわそわしながら立ったり座ったり、あるいはときどき研究所から出て、意味もなくレストランのある高層ビルを眺めたりすることだけ。ただひたすらナイの帰還を待つことだけだった。
 そしてとうとう、イライラのピークに達したマーカスが叫んだ。
「もーう耐えられない! おれは行くぞ!」
「ダメだよマーカス! ぼくらがお見合いを邪魔するわけには……」
「気づかれないように見るだけなら構わないだろ! とにかくおれにはこのままじっとしてるのが無理むりムリなんだ!」
 マーカスはそう言って、飛び跳ねるウサギみたいな格好でうねる芝生を突っ走っていってしまう。
「まずいぞ!」
 ゴードンとジェロニモとぼくは互いに頷きあうと、すぐさまマーカスを追って走り出した。

 一番先頭のマーカスを追って滑るように走っていくジェロニモ、その少し後ろに息の切れかけたぼくとゴードン。だだっ広い大学公園をぼくら四人は放たれた鉄砲玉みたいにまっすぐ突っ切っていった。
 ぼくの心臓がそろそろ破れかけの限界に達しそうになったとき、ついにマーカスがガラス張りの高層ビルのエントランスに辿り着いた。
 マーカスは一分一秒もどかしそうに回転ドアをくぐり抜けビルの中に入っていく。そのすぐ後にジェロニモがついて入り、ぼくとゴードンは入り口で一旦立ち止まると、表の案内図を横目でちらっと確認した。
 展望レストランは最上階の五十階。ゴードンとふたりで頷きあい、ぼくたちも回転ドアをくぐる。

 エレベーターホールに行くと、背の丈より大きな観葉植物の陰で、マーカスがジェロニモに羽交い締めになって取り押さえられていた。
「マーカス、落ちつけ」
 ゴードンが言う。
「さっきも言ったがレストランで騒ぎを起こせば博士を困らせることになる。おれたちが飛び込んでくわけには行かないんだ」
「でもよゴードン!」
「まあ待て、お前の気持ちはわかってる」
 ゴードンはマーカスの肩を叩いて言った。もがいていたマーカスは脱力し、ジェロニモはマーカスを開放した。ゴードンが続ける。
「――おれたちだって同じなんだ。ここまで来たからにはこのまま研究所に引き返す気にはなれんさ」
 ゴードンの言葉にぼくは驚いて訊いた。
「え? それじゃあ……」
「行こうぜ。見つからないようこっそり見物するぶんには、問題あるまい」
「よっしゃー!」
 大喜びのマーカス、ぼくはゴードンをつっついて訊く。
「いいのか? まずいことになるんじゃ?」
「だったらジミーは研究所に戻るか?」
「ちょっと無茶言うなよ! ぼくだって……」
「はっは、冗談だよ。あ、マーカス、とりあえず二階へ行くぞ。エレベーターのボタンを押してくれ」
「二階?」
「準備があるだろ? 見つからないようにするためにはさ」

 さて、それからしばらくのあと、ぼくらは最上階の展望レストランへと踏み込んだ。
 それぞれショップで買った急ごしらえの変装道具を身につけて、四人はまるでデタラメな組み合わせの団体旅行者のような怪しい風貌。
 麦わらとポンチョのマーカスに、サングラスにスーツのゴードンとジェロニモ(ジェロニモはご丁寧に金髪のかつらまでかぶっている)。ぼくはといえばアロハシャツに黒ぶちメガネ、地元のチームの野球帽だ。これじゃ逆に目立っちゃいそうだけど、要はナイにぼくたちだってばれなきゃいい話。
 やたらめったらに広い店内をぐるりと見渡すと、窓際の見晴らしのいいテーブル席に、ナイとお見合い相手の青年がいるのが見つかった。両家の親たちはすでに退散したあとらしい。
 お待たせいたしました、と黒服のウェイターが(胡散臭げな顔をしながら)ぼくらのところにやってきたので、ナイに見つからないよう彼女の後ろ側の遠からず近からずの適当な席に案内してもらい、緊張しながら席についた。
 ゴードンとジェロニモがナイと背中合わせの格好で並んで座る。ぼくはその向かいの席にマーカスと並んで座った。
 ぼくの座った席からは、間を挟んだいくつかのテーブルについた客たちに視界を邪魔されることなく、まっすぐナイの後ろ姿を見ることができた。
 背中が大きく開いた浅葱色のワンピース。見たことのない服だから、多分親が持ってきたものだろう。髪も見たことない形に結い上げていて、うなじから首すじ、そして開いた背中へとナイの真っ白な肌がむき出しになっている。ナイがあんなに綺麗だなんてぼくは知らなかった。本当にとても綺麗だ。でもあれはあまりに、あまりに無防備すぎやしないか?
 爆発的に膨れ上がった心配にぼくが気絶しそうになっていると、ゴードンがジェロニモにささやいているのが聞こえた。
「ジェロニモ、なにを話してるか聞こえるか?」
「いやダメだ。ちょっと遠すぎたな。相手の男の唇を読んでみるか?」
「そうするとしよう」
 そう言って振り向くこのふたりは、サングラスとスーツでまるで捜査官かなにかになった気分でいるらしい。ぼくにはふたりのような芸当はできないけれど、相手の男がどんな奴かは当然気になっていたから、ちょっと頭をずらして、向こう側の男の顔が見えるようにした。
「あれ……? あの顔どこかで……」
「ん、ジミーもそう思うか?」
 マーカスが言う。
「なーんか昔どっかで見たような気がするよな、あの七三分け……、どうも嫌ぁな感じがするんだぜ……」
「うーん、確かになんか嫌な気持ちになってきた」
 相手の男は薄茶色の髪をぺったりと七三に撫でつけた細い目の男で、見てるとなぜか不愉快な気持ちが沸いてくる。男は終始薄っぺらな笑みを浮かべているのだが、どうもその目つきはいやらしいような気が……。まあ、偏見と先入観で曇ったぼくの目を通して見てるから、そんなのは気のせいかもしれないけど――。
「わかったぞ! あいつカルマだ!」
 突然マーカスが小声で叫んだ。
「カルマ?」
 初めぼくは誰のことかわからずにきょとんとしていた。するとゴードンがサングラスを外し男の顔を見直してから言った。
「そうか、元副会長のカルマ。建設会社の社長の息子だったな」
 副会長のカルマ! 中学の時の生徒会でナイの右腕だった男!
 とっさにぼくらは身をかがめた。まずいぞ、あいつもぼくらの顔を知っている。
 幸いカルマはぼくたちの存在に気がついた様子はなく、グラスを片手になにか熱弁を振るっている。
 自信満々で語るカルマ。ナイはそんな彼をどんな表情で見ているのだろうか。ぼくの位置からナイの顔は見えない。笑顔だろうか? それともつまらなそうな顔をしているだろうか? もしかしたらうっとりしているかもしれない。あるいはうんざりした顔かもしれない。ぼくはできれば最後であって欲しいと思っていた。
 でも結局のところ、ナイはそのうちの顔、どれでもない表情をしていたのだった。
 どうしてそれがわかったかっていうと、そのときナイがちょっとした事件を起こしたから。ナイはそれまでじっとカルマの話を聞いていた。それが突然、勢いよく椅子から立ち上がるや否や、グラスの水をカルマの顔めがけてぶちまけたのだ。
 彼女はぷいと顔を背けると、すたすたとレストランの出口に向かって大股で歩いていった。その横顔を見ると、ナイはかんかんに怒っていて、頬は真っ赤に染まっていた。
 ぼくはあっけに取られてカルマを見た。カルマは顔から胸にかけてびしょ濡れで、バツの悪そうな顔をして辺りをきょろきょろしていたが、黒服が持ってきたタオルをひったくるようにして奪い取ると、顔とシャツを拭きながら立ち上がった。
「ナイを追うつもりかな?」
 ぼくはマーカスにそう言った。
「どうだろなー。おれならすぐに追いかけるけど、あいつはなんだかもたもたしてるよな」
 マーカスの言うとおり、カルマは席から立ったものの、すぐに出口に向かわずに奥のトイレに入っていった。
「……それじゃ、この隙におれたちも帰ろうか」
 ゴードンが皆に言う。ぼくらはそれぞれに頷きあって、グラスの水だけ一息に飲み切り、それで展望レストランを後にした。
 そのとき飲んだ水が、ぼくの生まれて初めて飲んだレモン水だったってのは、まあ、どうでもいい話だけどさ。とにかく今まで飲んだ中で一番おいしい水だった。