間違った旅路の果てに正しさを祈る *Reprise

著:ニコリリ


5.家政夫ジミーの誕生


「ナイ! いつ帰ってきたの!?」
 ぼくは驚きと喜びとどこかムズムズするなにかをひと混ぜにした気持ちで彼女の元に駆け寄った。
「うん、ついおとといなの」
 ナイは昔と変わらない、よく通るきれいな声で答えた。
「休暇? こっちにはどのくらいいられるの?」
「えっとね、ずっといることにした」
「え? あの、それってどういう……」
 ぼくが聞きよどんでいると、ゴードンが来て言った。
「ここで立ち話するよりちょっと移動して、ゆっくり話そうぜ」
「そうだわジミー、あなたお腹すいてない?」
 実際、ぼくのお腹はもうすぐ背中と一体化する寸前のところまできていた。ぼくがそう答えると、ナイはにっこり微笑んで言った。
「ごちそうさせて。釈放のお祝いしなきゃね」
「ごちそう? マジで?」
 彼女は優雅な仕草で腕を上げ、近くにあった車を指し示した。
 それは黒いぴかぴかの高級車で、あとから知ったんだけど、その車は偶然にも、亡くなった市長が乗っていた公用車と同じ型だった。驚くべきか、車はナイが自分の金で購入したものだった。

 ナイが中学を卒業し、レムを離れてから五年の月日が過ぎていた。そのあいだに彼女は、飛び級して入った大学の研究室でいくつかの特許を取得し、その利用権から入る収入でひと財産を築いていた。

 実はナイがレムに帰ってきたのは、ぼくが逮捕されたというニュースを聞いたからではなかった。彼女は大学の研究室で頭の悪い(ナイはうすのろのスケベ親父という表現で彼のことを表現した)威張りくさった教授とケンカして飛び出してきたのだ。彼女はこのレムに自分だけの研究所を作るつもりだった。
 そしてナイはあっというまにその通りにした。
 金さえあればなんでもできる、とは言わないが、まあほとんどたいていのことはできる。

 黒塗りの高級車に乗り込むとき、ぼくはひとりの人物を紹介された。この車の運転を任されていたランプという男だ。
 度の強い大きな(それこそ中学時代のナイがかけてたような)眼鏡をかけた小太りのおじさんで、口のとんがった、ひょうきんな顔をしていた。
 ぼくはてっきり運転手だと思って、移動中の車内でもそのつもりで会話していたのだが、本当は大学の研究室からナイにくっついて来てしまった、研究助手の人だった。
 でも彼の立ち居振る舞いは、どう見ても助手と言うよりは運転手や執事の雰囲気を漂わせていた。実際ぼくが車に乗るときも、わざわざ運転席から降りてきて、ていねいにドアを開け閉めしてくれたしね。

 さて、ごちそうしてくれると言われてぼくは、てっきりナイが手料理を作ってくれるものとばかり思っていたんだけど、ランプ氏の操る高級車はぼくらをナイの家ではなく、レム市街の中華料理店へと運んだ。
 図々しくもぼくがそんな勘違いをしてしまったのにはちょっとしたわけがあって、その頃、マーカスが調理師の免許を取るための勉強をしていて、ことあるごとにぼくら(とシャドウ)を呼び集めては実技練習の成果を試していたのだった。そのためごちそうすると言われるとつい、その人の手料理を連想するようになってしまってたというわけ。
 実はそのすぐあと、同じ勘違いをゴードンやジェロニモもしていたことがわかって、中華料理店にしかないあの愉快な回るテーブルを囲んでおいしい料理に舌鼓を打ちながら、ゴードンがそのことを話すと、どういうわけかナイは耳まで真っ赤になって、肩をすぼめ、小さくなってしまった。
 食事の後、ナイが会計を済ませているときにランプ氏がこっそりと教えてくれたところによると、ナイは意外にも料理の腕がからきしなのだそうだった。また料理だけじゃなく、掃除や洗濯などの家事全般に渡って、学問の分野での才媛振りからは想像もつかないほど、強い苦手意識を思っているらしかった。
 なんでもその辺りの才能の乏しさから、学生時代(といってもつい先日までの話だったけど)のルームメイトからことごとく迷惑がられ、半年のうちに四人もルームメイトが交代してしまったのだとか。

 そんな話を聞いてぼくは、ナイのことをだらしないとか、役立たずだとか思ったかっていうと――全然思わなかった。
 むしろ、もしかしたらぼくでもナイのそばに(家政夫として)居られるチャンスがあるんじゃないかと思って、ほんわかした気持ちになった。
 で、実際そうなったんだ。
 研究所員という肩書きで、ぼくら四人で、だったけど。

 ナイの研究所はグッドマナーズ大学公園近くのビルにフロア二階分買い取って造られていた。
 ひと頃、大学のそばにベンチャー企業が本拠地を置くことが流行った時期があって、その時、無数のビルが公園を取り囲むようにニョキニョキと建ち並んだ。
 新進気鋭の起業家たちの風変わりな都市計画構想のために、公園の草むらとそのビル群との間に境はなく、ぴかぴかの新築ビルはまるで公園の一部のようになっている。今の大学公園という名はビル群も取り混ぜての呼び方だ。
 研究所のあるビルは、大学前の通りから公園の穏やかな海のようになだらかに起伏した草むらを渡り、いくつものビルとビルの隙間を抜けていった先の、奥まったところにあった。
 ナイに誘われて初めてこのビルに来たとき、ぼくは幼い頃に初めて北の林のアジトを訪れたときのことを思い出した。辺りの様子も建物そのものの姿もまるで違うのに、あのアジトにどこか似た静かな雰囲気を感じたんだ。
 あとから考えれば、確かにそこはぼくたちの――そしてナイの――新しいアジトとなり、古いアジトに負けないほど大切な思い出の詰まった場所となった。

 ナイが研究員として誘ったのは結局ぼくら全員だったけど、四人同時ではなかった。
 初めにぼく、次にゴードンとジェロニモ、最後にマーカスだ。
 最初にぼくを呼んでくれたことに若干の優越感を覚えなくもない。例えゴードンたちとの差が、ほんの半日しかなかったとしてもね。
 ぼくは彼女の話に一も二もなく応じた。エコテロリストとしての生活を捨て、ほかにやりたいこともなくて、資格も才能もなく、手に職もない。断る理由がまるでなかった。あるひとつの心配を除いては。
「えーっと……、ぼくなんかがナイの研究の手伝いなんてできるかな? その……量子力学だっけ? 全然知識がないし、それどころか、ぼく高校の物理も毎回赤点で補習受けてたくらいなんだけど……」
「だいじょぶだいじょぶ、うちの研究所員になるのに特別な知識はいらないんだから。研究の理論的な部分はほぼ完成してるし、難しい知識が必要な部分はランプさんが手伝ってくれるから」
「あ、そう? ならいいんだけど……」
 ぼくは思った。じゃあなんでぼくを誘ったんだろう? もしかして、もしかしたらナイはぼくのこと――。
 と、ぼくの表情を読んだようにナイがつぶやく。
「元気のある人がねぇ、所内にいてくれると色々助かるのよねぇ」
「ん……それはつまり男手があると便利だってこと?」
 ぼくがそう言うと、ナイはちょっと恥ずかしそうに笑って言った。
「男手っていうか……、身の回りのことがね、わたしオロソカになっちゃうみたいだから。本当は女手? かな?」
 こうして家政夫ジミーは誕生したわけだ。

 ゴードン、ジェロニモはそれぞれの好奇心からこの話を受けたらしい。ゴードンは研究そのものに興味があったし、ジェロニモはスピリチュアルな意味で以前からナイに注目していた。
 ナイが初めのうちマーカスを呼ばなかったのは、彼にはぼくらとは違ってちゃんとした将来の目標があるように思えていたからだった。つまり調理師としての未来が。
 だがぼくたち三人がナイの研究所の厄介になっていることを知ったマーカスは、自分から研究所にやってきて、ナイに自分も研究所員にしてくれるよう頼んだ。ナイはちょっと戸惑った顔をしたけど、ひとつの条件をつけて彼も雇うことにした。
 その条件ってのはマーカスがきちんと調理師の資格を取るということで、彼は一週間後に免状を持って研究所を訪れた。
 仲間はずれが嫌だったのか、それとももう少し違う訳があったのか。とにかくマーカスはその熱意(?)を認められ、晴れて研究員となった。

 本当のところ、その頃のぼくたちはナイのことをどう思っていたんだろう(あるいはどう思ってると思っていたんだろう)?
 中学時代、ぼくたちは互いに充実した争いの日々を過ごしたけど、それはほんの少しの期間だけ。それもライバルというより、一方は山の手育ちの生徒会長、もう一方はダウンタウンのリトルギャングと、完全に違う世界の住人として相容れぬ存在だった。少なくともぼくにとってのナイはそんな遠い存在だった。
 そういう見方はゴードン、マーカスにしてもそう変わらなかったと思う。ジェロニモはよくわからないけど。

 逆にナイがぼくたちのことをどう見ていたのかということについては、たぶんあの日、踊り場で交わした会話でぼくに話したことが、そのままずっと彼女の偽らぬ気持ちだったんだと思う。つまり、どういう理由かはわからないけど、ナイがぼくたち四人にただならぬ興味を抱いている、という話だ。
 ものすごく大雑把に言ってしまうと、ようするに彼女はぼくたち四人の「ファン」だったってことになるのかなぁ。とても信じられないような話だけど、後々、彼女はその想いをはっきりとぼくらに伝えてくれることになる。――ひどく悲しい形で。

 まあ、そういうことをいろいろ考えたのはもっとあとになってからのことで、その時は単純に、ナイのために仕事ができることを嬉しく思い、さらにはぼく個人に対してナイがどんな風に思ってるのかということが、一番気になることではあった。
 そんな毎日、それはそれは幸せな日々だった。